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2018年12月11日 (火)

古のまちを歩いてみた

まぁ、悲しい気持ちばかりでいい事はなかったですね。

電車から懐かしがっていた方が良かった。
すべてが時代の波にのまれて変わり果てて、別の惑星でした。
私の住んでいたところはドン・キホーテのおそらく4階の真ん中あたり、か、後ろの方か、嫌いなので店に入る気も起きません。
あのゴウツクおやじのパーキングはラーメン屋になってました。
昔一度だけお宅にお邪魔したことがあり、いつも見上げていた風景を見下ろすようにガラス張りのリビングに大きな本革のソファの座り心地がムギュっとして、映画やドラマで見る成金のリビングそのものでした。
あの胸にもう一度のマリアンヌフェイスフルが柔らかな裸体に革のライダーススーツのファスナーを閉めてオートバイに跨るシーンを見た時に、そのムギュムギュ感が再現された記憶があります。
私の部屋から見下ろす位置にあった寿司屋の滝のある池も、夏になるとみんなで泳がせてもらったプールも、そこに行くまでに通る厨房も飲み込まれて消失してました。
寿司屋は残っていたけど、かつての栄華は無く、昼に弁当を売っているようでした。
銀座の寿司屋で食べても同じようなものに感じる、普通に美味しい店でした。
一番、店屋物で頼んだのはもやしラーメンでした。美味しかったなぁ、私にとってのラーメンはあのもやしラーメンでした。
親戚が来たときは鮨や、うな重を頼んだのですが、「やはり違う、美味しい」と言うのが不思議でした。
千葉に越して理解しました。もう、言葉もなく、閉口するばかりでした。
先輩の家のメダルやバッジを作っていたと思われる鍛冶屋も消失してました。
お花の教室も消失してました。
なかよしやリボンを買った本屋はそば屋になっていたけど屋号が先代と同じだから継いだのだね。
その隣の中華屋では蕎麦しか食べたことがないのだけど、数か月前もTVで紹介されて従業員寮も残されていた。
私が初めてメガネを作った眼科も残っていた。
それからお化け公園も昔のままだった。
ただ、地獄の一丁目を遊んだ丸いブランコは無くなっていたね。
私たちは動くブランコに飛び乗り、真ん中の棒を持ち、背もたれの部分に乗り、足で蹴飛ばし、棒を腕で揺らしながら「ここは地獄の何丁目?」などと言い、最初は1丁目、2丁目、そして最後が8丁目で目いっぱい揺らして動くブランコから飛び降りるという遊びをしていたのだ。
普通のブランコも一番大きく揺れた地点から飛び降りて、誰が一番遠くに飛べたか競ったのだ。
それから神社の塀を歩いたりしたのだけど、もう歩けないように柵がしてあった。
悪ガキは時代に関係ないのだろう。
私がブランコに乗って靴を飛ばしてしまい散々怒られた(寝たきりのおばあちゃんがいて、ガラスが壊れておばあちゃんに何かあったらどうするのだ、お化け公園というだろう、化けて出るかもしれぬぞと延々怒られたのだった)日本家屋のお宅はマンションになっていた。
一つ一つ書くと長々してしまうから殆どは端折る。
毎日通った近くの坂道は実は江戸時代からある坂道であった。昔は坂の上に犬が飼われていたのである。
近くの旗本の名前が付けられた坂道であったのだと初めて知った。
この坂道の先には有名な先生のお宅があり、しかしその先生が誰なのか知らなかった。加藤と表札にあった気がするのだが、こじんまりとした日本家屋でお屋敷ではなかった。
お屋敷と言うような屋敷もあっただ。
レンガ建ての洋館もあったのだ。
だからパーキングも寿司屋も成金だったのだ。
その先生の家の斜め前にはやはりお金持ちの兄弟の土地と言われた場所があり、そこは億ションという言葉の走りのようなマンションが子供の頃建てられた場所だ。
当時は守衛さんがマンションなのに居た。
私が知る限り、当時守衛さんがいるのは都知事邸と田中角栄邸であった。
まだチンドン屋が練り歩るいていた。
リヤカーを押した乞食がお化け公園に寝泊りしていたり、野良犬がいたり、金太郎飴の店の前を毎朝通り過ぎたころの後かもしれない。
同級生のテラードの店も無くなったいたが、私が決して口を開けなかった歯医者な意外なことにも残っていた。信じられない。孫が剥がれ落ちた文字をマジックで書いたと思われる、最高教育を受けた者の字とは思われない、拙さが良心を感じさせた。。
近所の内科は病院は無くなっていたが、ご子息は博士として表札を出していた。
耳鼻咽喉科も残ってた。
病院は結構残っていた。それと神社仏閣は残っていた。
同級生の店やビルで残っているのもあったが怖いから通りすぎるだけであった。
学校は残念な事に校章が無くなり、でも校舎は残されていた。近くの大病院から借り受けて保育所として残っているらしい。
守衛なのか入口にいて校舎を見る事は出来なかった。
きっとこの守衛はあの石碑が1階トイレで犯され殺された女の子の碑であると知らないのだろう。
昭和の時代にはTVで凶悪犯罪として取り上げられたりしたのだ。隣の公園から校庭を見ることが出来るのだが、泣けてしまった。
おそらく大病院の看護婦や先生の子供を預かるための保育園として存続させて頂いてるのかもしれない。
相当昔に昭和時代のグループ歌手が存続に乗り出したのを覚えているのだ。
デュークエイシス?だったろうか?忘れてしまったが出身校なのだ。
その公園のよく遊んだブランコはなくなったいたが、他は残ってた。アベック公園と呼んでいたのだ。実はアールデコ様式の公園なのだ。
冬には霜柱を踏んだ公園だ。
端折るがドラマに使われた坂道は桜色の絨毯がほんの一瞬なのだったが、その桜は切り倒されたのだろうか?
トイレ休憩のために寄った図書館に行く坂道でもあった。
ああ、懐かしい、この眺めも、まちを見下ろす丘だね。
図書館の前は同級生の家だったのだが、ビル?になっていた。
彼女は美人ぞろいの中でも飛び切りの美人で花椿の表紙から芸能界に入り、イレブンピーエムでビキニ姿でポールに巻き付いていたのだ。
藤本義一に胸がバスケットボールのようだと言われていたのだ。
エピキュリアン、髪を洗った少女みたいに
歌手としてもデビューしたのだ。
電線マン音頭の番組にも出ていたのだ。
ビート武に「なにがやだぁお父さんのだ」と言われた翌日には中庭を見下ろしながら同級生に「気にすることないよ」と慰められていたのを覚えている。
その隣のお屋敷はオンボロだが残っていた。
長くなりすぎる…
端折って端折って端折る。
年下の男の子を歌いながら遊んだ公園は…
私がいつも登って跨いだり寝転んだ木は無くなっていた、と言うか入れなくなっていた。
いつも寝転んでいた岩はあった。
親友が当時人気の演歌歌手が女性とデートしていたのを見た公園である。
その公園はさらに上が芝生の墓地だったのだ。
が、今は芝生ではなくなっていた。
実は軍用地であったというのは初めて知った。
それから又懐かしい駅からの道を歩いたのだ。
この道は俳優の寺田実とすれ違った道なのだ。
ご近所さんだったのか?たまにすれ違うのだ。
更に夕方の番組出るためデビュー当時のフェアチャイルド(YOUは大出世したね)が良く突っ立ていた場所は地下駐車場にでもなっているか?もう迷路歩いているよう。
又端折る。
最後にパンを川の鯉にあげているおじさんがいたので声を掛けた。
鯉は季節になると上流に遡上するので一年中いるのではない、カモメがいる時はパンを全部持って行ってしまうこともあるのだという。
ここに来るときはパンをあげるのだという。
おじさんは元調理師で地元の人ではなかった。
体が冷えるほどおじさんと話し込んでしまった。
おじさんによるとおかぁさんの8割が今働きに出ていて糖尿病の子供が増えているのだ言う。
草津に呼ばれ講習したらしい。
今の調理人はやたら味の素や砂糖を使うので驚いたという。
おじさんの頃は砂糖なんか使わずリンゴや玉ねぎで甘みをだしたのだと。
昔のとんかつは美味しかったけど今はだめだそう。
エビも昔のエビフライは甘くてぷりぷりして本当に美味しかったけど今はガッカリしますよね、と言ったら「昔は大正エビしかなかったから、今はブラックタイーガだから、タイの汚い池で育てられたえびだから」おじさんは絶対口にしないのだという。
マグロも昔はトロなんて売ってなかった。
赤みの水っぽい刺身だったのだ。
私の方が都会っ子だから赤かったが、おじさんは黒いマグロを食していたらしい。(それはもしかして血合い…?)
今より美味しかったという。
味の濃さが違うのだ。
今は薄くなった。
おじさんは50年後の日本を心配していた。
50年掛かるのか?私は空恐ろしいのだが…
又会ったら声かけてと手を振られた。
ペギーリー アイドンワナプレイインユァヤード
https://youtu.be/DsqO3eztLdw

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